言霊の幸はう国と聖霊の降臨
2000年12月4日聖歌、の心と技、というお話を聞いて、思い出したことがあった。
ていうか、予告なんだけど長くなると思うよ。
これ、自分のHPのエッセイにアップしようとおもってたネタだから。
私が、グレゴリオ聖歌に会ったのは大学入ってまもなく。
最初は、その旋律の面白さに惹かれてのこと。
しかし、旋律の美しさならパレストリーナとか、
モンテヴェルディとかいくらでもあるわけですよ。
ポリフォニーのほうが音に厚みもでるし。
だけど、グレゴリアンは私の魂をゆさぶる音楽だったわけで。
Kに出入りするようになって、初めて師匠とお話したとき。
―聖歌は、歌じゃないのよ―
まず、師匠がそうおっしゃった。
じゃ、なんで聖歌なんだい?(心のつぶやき)
グレゴリアンにしても、それから派生した中ルネも
ミサ曲も元は聖書の言葉。
最初はいわゆる聖書朗読だったそうな。
それに節がついて、はいグレゴリアンの誕生。
グレゴリオ聖歌の四線譜とその元になったネウマは
一見タダの楽譜に見えるんだけど、あれ不思議
重要な言葉にはちゃんと、もりあがるフレーズや
強調するように詠唱を指示するネウマがあるのです。
それは、実際にやってみると歌と言うより
言葉をとてもとても大切にしてることが読み取れる。
聖書は神の言葉。
日本にも、「言霊」という言葉があります。
50のいろは一つ一つに、精霊が宿るという信仰。
かつては、日本人も美しい言葉を大切にしていました。
「あめつちをも動かす」言霊の力。
私は、聖歌について師匠と話しているとき
「言霊」この言葉を思い出して。
師匠も聖歌を「まさに、それと全く同じ精神」
で学び取りなさい、と言ってくれた。
だから、歌い方の良し悪しは全く関係ないと。
一番肝心なのは、その聖歌―祈り、へのこころ。
音も「信仰がなければ、ただのやかましい鳴り物」
聖書の言葉。
手段のために目的を見失ってはいけない。
そうこころに言い聞かせて。
せっかく、同じ、言葉にたましいの宿る国に
生まれたのだから。
ていうか、予告なんだけど長くなると思うよ。
これ、自分のHPのエッセイにアップしようとおもってたネタだから。
私が、グレゴリオ聖歌に会ったのは大学入ってまもなく。
最初は、その旋律の面白さに惹かれてのこと。
しかし、旋律の美しさならパレストリーナとか、
モンテヴェルディとかいくらでもあるわけですよ。
ポリフォニーのほうが音に厚みもでるし。
だけど、グレゴリアンは私の魂をゆさぶる音楽だったわけで。
Kに出入りするようになって、初めて師匠とお話したとき。
―聖歌は、歌じゃないのよ―
まず、師匠がそうおっしゃった。
じゃ、なんで聖歌なんだい?(心のつぶやき)
グレゴリアンにしても、それから派生した中ルネも
ミサ曲も元は聖書の言葉。
最初はいわゆる聖書朗読だったそうな。
それに節がついて、はいグレゴリアンの誕生。
グレゴリオ聖歌の四線譜とその元になったネウマは
一見タダの楽譜に見えるんだけど、あれ不思議
重要な言葉にはちゃんと、もりあがるフレーズや
強調するように詠唱を指示するネウマがあるのです。
それは、実際にやってみると歌と言うより
言葉をとてもとても大切にしてることが読み取れる。
聖書は神の言葉。
日本にも、「言霊」という言葉があります。
50のいろは一つ一つに、精霊が宿るという信仰。
かつては、日本人も美しい言葉を大切にしていました。
「あめつちをも動かす」言霊の力。
私は、聖歌について師匠と話しているとき
「言霊」この言葉を思い出して。
師匠も聖歌を「まさに、それと全く同じ精神」
で学び取りなさい、と言ってくれた。
だから、歌い方の良し悪しは全く関係ないと。
一番肝心なのは、その聖歌―祈り、へのこころ。
音も「信仰がなければ、ただのやかましい鳴り物」
聖書の言葉。
手段のために目的を見失ってはいけない。
そうこころに言い聞かせて。
せっかく、同じ、言葉にたましいの宿る国に
生まれたのだから。
コメント